2015/10/19

韓国の反応 「日本の戦国時代の鎧を見てみよう」→「確かに日本人たちの美的センスは素晴らしい」






韓国の反応「日本の戦国時代の鎧を見てみよう」→「確かに日本人たちの美的センスは素晴らしい」カテゴリ







韓国のネット掲示板に「戦国時代の鎧を見てみよう」というスレッドが立っていたのでご紹介。


1. 韓国人(スレ主)アンニョン、イルベ民よ。壬辰倭乱が大好きなので、あれこれ見ているうちに戦国時代に興味が出てきたのでスレを立ててみた。


戦国時代は、日本国内で多くの英雄たちが輩出された時期でもある。(そんな日本の英雄たちを圧殺した李舜臣将軍様(泣)無条件愛国酒が進む!)今回は、その何人かの有名な大名の鎧を通じて、どんな人物がいたのかを簡単に紹介してみたいと思う。





甲斐の虎、武田信玄の甲冑織田、徳川連合を滅亡寸前にまで追い込んだ大名、武田信玄の鎧だ。武田家は、戦国時代を最後に処刑されたため、現在は存在しない家系である。

戦国時代で消えたにも関わらず、風林火山の旗印の下、最強の一族として君臨したため、日本国内では1位2位を争うほどの人気がある。(映画「鳴梁」で来島が、この甲冑を色だけ変えて着ていた)






加藤清正の甲冑



我々もよく知る壬辰倭乱の敵、加藤清正の甲冑だ。賤ヶ岳の7本槍の1人で、臨海君を捕えたりもした。加藤は関ヶ原の戦いで、徳川家康につき、小西の領地を全て与えられ、日本3大名城の1つである熊本城も築造した。武将としての人生を全うして死んだ。(加藤の熊本城)




俺が幼い頃、宇宙情報少年団(日本のボーイスカウト)に所属していた時に訪れたところが熊本城だった。

加藤が、壬辰倭乱の時に、食糧不足が深刻になり畳をサツマイモの茎で作ったとされる城である。

井戸もたくさん掘ったそうだが、俺が見に行った時は、井戸は見なかった(その当時は、何も考えずに見物していたが…)



藤堂高虎の甲冑



紹介しなければならないほど大きな大名ではないが、映画「鳴梁」にも登場し、壬辰倭乱の後、徳川家康に最も近い側近にまで出世したので調べてみた。

この子の一生は、不意打ちである。「武士は7度主君を変えなければ、武士ではない」と精神勝利までする。とにかく、優秀だったのは間違いない。(鳴梁に出てきた藤堂高虎)





伊達政宗の甲冑




奥州の覇者、独眼竜、伊達政宗の甲冑だ。日本国内でも、ずば抜けた人気があり、日本信者たちは、確実にアニメで見たことがあると思われる人物である。

徳川家康が最も恐れた大名であり、江戸幕府を崩す1番手と評価された人物。

その遥か後、実際に幕府を倒し、明治維新を起こしたのは、奥州の正反対側の島津と毛利であったのは歴史の皮肉と言えるであろう。

日本信者には個人的なお願いだが、どうかこの子を称賛するのは止めなさい。

伊達政宗は、晋州城で朝鮮の農民を全員、虐殺した韓国の敵である。看羊録で、倭将の中で最も陰険で邪悪な人物と記録されているサイコパス。

伊達政宗は、クソ野郎だ!(もちろん、列島人たちの特性上、萌え化は避けては通れない道だが…)




豊臣秀吉の甲冑



この鎧は、豊臣秀吉の甲冑だ。

壬辰倭乱の敵であり、平民から関白の座まで上りつめた戦国時代の出世街道を代表する人物。

織田信長が明智光秀に裏切られて本能寺で死んだ時、最前線で毛利と交戦中だった秀吉は、毛利と和議を結んで明智光秀を制圧した。

織田家の復興のために天下を握るが、これは事実上、秀吉の野望のための名分だったというのが既成事実である。

以後、関白の座に就いて、我々があまりにもよく知っている壬辰倭乱を起こした。結果は、李舜臣将軍と義兵たちの活躍によって失敗。

後に病気になって死んでしまい、徳川に天下を譲った。




本多忠勝の甲冑




三国志に呂布がいるように、戦国時代には本多忠勝がいる。

徳川四天王の1人だ。幼い頃から家康に従い、一生、彼の後ろについて回り活躍した。

徳川には、過ぎたるものが2つあるという言葉があり、「1つは中国の鎧、もう1つは本多平八」傍若無人な織田信長でさえ「花実兼備の勇士」と評するほどの大活躍をした。

甲冑にかかっている数珠が見えるか?あれは自分が殺した人たちに対し、礼を守るために巻いていたと言われている。

本多の有名なエピソードを挙げるとすれば、生涯を戦場で過ごしたにも関わらず、傷一つ負わなかったということ。

それで同じ四天王である酒井忠次と、よく対立をした(酒井は傷だらけの反面、本多は無傷なので、酒井としては本多は一生懸命戦っていないと思われていた)晩年に、木にナイフで名前を刻んでいた際に、すべって指に怪我を負い、これを見て本多は「私ももう終わりだな」という言葉を残して息を引き取った。(ゲームに登場する本多忠勝)








徳川家康の甲冑



戦国時代、最後の勝者、徳川家康の鎧だ。幼い頃は、有力な大名の人質生活を送った。壬辰倭乱の後、豊臣秀吉が死んで関ヶ原の戦いを通じて、天下人となる。(徳川家の家紋)




上杉謙信の甲冑



戦国時代最強の軍神、上杉謙信の甲冑だ。

以前から噂があった写真で、俺もこれがオリジナルの甲冑を再現したものだと思っていたら、どうやらこの甲冑は鎧の工場で作った創作物のようだ。

上杉謙信は、自らを毘沙門天の化身と信じ、銃弾が飛んでくるような戦場でも一番手(先鋒)で戦った(毘沙門天の化身であるため、弾丸が自分を外れると信じていたという)。

武田家とは川中島で5回(7~11回という説もある)の戦闘を繰り広げ、戦国時代最高のライバルとして君臨した。

武田信玄が上洛途中に死に、その後、織田・徳川連合軍を攻めるが、謙信も上洛中に急死してしまう。(ドラマ風林火山で謙信を演じたガクト)






上杉謙信のエピソードの中で最も有名なのは塩事件ではないだろうか。

内陸地方の武田が、周辺国が塩の流通を封鎖したため、塩を得ることができず困っていると、敵である謙信が「戦いは槍と刀でするものであり、民が苦しむ理由はない」と、塩を送ってくれたという話がある。

しかし、これは事実ではないようだ。


井伊直政の甲冑



徳川四天王の1人、井伊直政の甲冑だ。、

この子は、顔が美しかったので、男色をあまり楽しむことができなかった徳川が、小姓として連れて歩いたほど。(当時の大名たちは、可愛らしい男の子を小姓として連れて歩き、男色の相手をさせた)

大人になってからは、赤鬼、人斬り兵部と呼ばれ、勇猛を振るった。

秀吉も、特に直政の軍には気をつけろと言うほどであった。




真田幸村の甲冑



伊達政宗と共に、日本で1位2位を争うほど人気のある武将、真田幸村の甲冑だ。頭に6つのコインの模様があるが、これは六文銭といって三途の川の通行料を表現したと言われている。

関ヶ原の戦いでは、西軍に所属し大阪城に籠城、徳川を何度も困難な状況に追い込み撹乱させた。

その後、徳川に何度も降伏を勧められるが、武士としての義理を貫き最後まで抗戦し、徳川家康から「日本一の兵」と絶賛された。真田十勇士のエピソードが有名だが、これは真実ではないという人が多くよく分かっていない。(幸村が守っていた大坂城)




直江兼続の甲冑



頭の愛の文字が印象的な直江兼続の甲冑だ。

上杉家の忠臣で、知略家として有名。壬辰倭乱にも参戦し、功をあげ30万石の領地を与えられる。

豊臣の死後、徳川家康に反目するが、最終的には徳川の家臣としてひざまずき、その能力を認められる。(ドラマ天地人の主人公である)




読んでくれてありがとう!


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